ブログ
5.132022
誰かを神のように崇めるのは自分ひとりだけの楽しみに。

誰かに夢中になると
その人を“神”のように
崇めてしまうことがありますよね。
この人の言うことがすごい!
そんなことを始めたなんてすばらしい!
この人の言葉にはいつも刺激を受ける!
生き方や考え方に共感できる!
などなど、
自分が悩んでいたことや
模索していたことに対して
バッチリな答えをくれた人との出会いはそうなりがち。
それが悪いとは言いません。
ひとりで楽しんでいるうちは
別に何の問題もありません。
問題はひとりでは済まなくなったとき。
周囲に“その人”のすばらしさへの
理解を強要し始めると
雲行きが怪しくなります。
周囲が同調したり、
共感してくれるならいいのですが、
そうでない場合、
なぜ理解できないないの?
なぜ一緒にお話会に行かないの?
「どうして私がすすめる人に
○○さんは会ってくれないんだろう?
すっごくためになるのに」
という思考に陥ってしまいがち。
自分がこうなっていたら要注意です。
自分で自分が見えなくなってしまっている可能性大。
「選択の自由」をわかっているはずなのに
こういう時に限っては
それすらも頭から消えてしまいます。
挙句の果てには、
“その人”に対して
「私もけっこう誘ったんですけど
動員できなくてすみません」的になったりして。
いやいや、違うでしょ。
あなたにはその人が
あなたの人生が変化するきっかけとなり、
“神”に見えただけ。
あなたにとっては“神”だけど
他の人にとっては“神”じゃない。
ただ、それだけのこと。
たまたま共感してくれる人がいたら
それは嬉しい偶然。
あなたにとって、
その人も今は神だけど
そのうち神ではないことに気づくはず。
だって、同じ人間なんだもの。
だから、周囲に同意を求めて(強要して)
無理解に打ちひしがれて
怒ったり、嘆いたりすることなかれ。
神と崇めるその人が素晴らしければ
あなたが一所懸命にならずとも
おのずと人は集まってくるのだから。
ひとりだけで楽しみましょ。
では、また明日ブログで。
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